天 然氷も扱っていた老舗の氷屋です。
オールシーズン、氷、かき氷用品、
ドライアイスを販売しておりますので、
覗いてみてください。
地元三重県地場産品も多数扱っています。

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来 歴

合資会社弥生産業の設立は登記簿では昭和26年5月16日となっていますが、
昭和63年に合資会社弥生産業製材所から名称変更して現在に至っています。
創業は寛政年間、これは商工リサーチの担当者との会話中にそう称した方が良いと助言され、
以来創業はと問われるとそのように返答しています。
四日市市から謹呈された四日市市史第九巻史料編近世U及び第十巻史料編近世Vには当家が提出した書状の一部が公開され、伊藤家については以下のように紹介されている。
朝明郡東冨田村は、江戸時代を通じて桑名藩領であった。伊藤家は、東冨田村の庄屋役等を務め、代々弥三郎を襲名した。明治五年(一八七二)の「三重県戸長名簿」によれば、当主の三代前の弥平二が当村の総代をしていたようで、職業は、米屋、石灰業の他、土地の水産業とも結び付いて、製氷業も営んでいた。

これらの史料には日付が明記された安永九年、天明元年、天保十二年、文政六年のものに混じって、
日付はないが内容から宝暦期(1751〜64)と思われると表記された文書もあることから、
当家は母屋が建てられた寛政十一年以前から庄屋を治めていたようです。

合資会社弥生産業は祖父が設立しましたが、
祖父は伊藤弥三郎家の10代目に当たりました。
9代目が存命中は祖父は弥太郎、11代目の父は甲子弥でした。
伊藤家の長男は名前に弥の字を入れるのが決まりで、
わたしも忠弥と名づけられ、息子は宗彌と名づけました。
息子だけ旧字の彌になっているのは戸籍法施行規則第60条の改正で
やっと息子の代で彌の字が使えるようになったからです。
父の死後、裁判所へ襲名の許可申請に行ったとき若い判事は
「あなたは勘違いしている。」と笑いました。
「戸籍名の変更が許されるのは極悪犯罪者と同姓同名で
今後の人生に支障をきたすと認められた場合くらいで、
歌舞伎役者が襲名披露とかしているから簡単にできると勘違いしているのじゃないか。」
「歌舞伎役者の芸名と戸籍名は違うんだよ。」と。
押し問答に嫌気がさし、祖父と父の戸籍謄本の写し、
四日市市史第九巻近世Uの解説分のコピーを入れた封筒を上司に渡すよう頼み立ち去りました。
襲名の受理は結構早かったです。
しかしわたしはまだ、12代目弥三郎を襲名していません。



わたしが二十代頃まで過した当時の母屋は、檜皮葺きの軒先にノキシノブが生茂り、
樹齢百年以上の黒松が一の枝を道路に伸ばした、
苔むした茅葺屋根のどちらかといえば粗末な古民家でした。
伝聞では富田が大火で焼尽した折、桑名藩から復興を命じられて遣わされたため、
母屋に贅を尽くすことはしなかったからだということです。
東富田の国道1号線を挟んだ西側に富田六郷の総氏神である鳥出神社がありますが、
言い伝えでは富田の大火の折竜神が現れ口から水を吐き出し消し止めた。
そのため鳥出神社以西の地域は罹災を免れたとして、竜神の御ほらが現在も残っています。
昭和後期になり消防署から茅葺屋根は飛び火で大火になる恐れがあるから、
屋根全体を銅板で覆うように度々要請され、
余りにも高額だったためやむなく解体しました。
その折、梁の上で見つかったのが下の棟札で、寛政十一年と読むのか俄かに判読できませんが、
七月八日、大工棟梁の名、木地、石工の名などがあるように見受けられます。
寛政は1789年から1801年まで、この時代の天皇は光格天皇、将軍は第11代徳川家斉です。
掛け軸の人物は先祖の一人であることまでは分かっていますが、
伊藤家何代目の誰であるかは特定できていません。また、菩提寺で先祖の出自を調べましたが、
菩提寺より当家の来歴の方が古く辿ることは出来なかったそうです。
弥三郎の名からすると、桑名藩に所縁のある伊藤家の三男が復興に遣わされたのかもしれません。



由緒ある伊藤家の母屋を解体したのも事実上わたしですし、
11代続いた弥三郎家の襲名を終わらせるのもわたししかいないようにも思われす。
文責者:合資会社弥生産業 代表 伊藤忠弥