萬古焼とは

萬古焼は、江戸時代中期に桑名の豪商・沼波弄山ぬなみろうざん
現在の三重県朝日町小向おぶけに窯を開いたことに始まるとされています。
弄山は自身の作品がいつまでも変わらず残るようにと「萬古」または「萬古不易」の印を押しました。
それが萬古焼の名前の由来といわれています。

萬古焼の創始者・弄山は1718年に、桑名(三重県桑名市)の豪商であった沼波家に誕生します。
沼波家は陶器の「萬古屋」という廻船問屋を営んでいました。
幼いころから茶道に精進した茶人であった弄山は、1736〜40年の間に、
その茶趣味が高じて朝日町に開窯します。
後に、江戸・小梅村(現在の東京都墨田区)でも開窯して評判となり、
当時の将軍の御成りもあったと伝えられています。
弄山が作品に押した「萬古」または「萬古不易」の印は、
「何時の世までも栄える優れたやきもの」という意味でおされています。
弄山の稼業の屋号が「萬古屋」だったことからともいわれています。
この時期の萬古焼を「古萬古」と呼んでいます。
弄山の没後は継承者がおらず、しばらくして萬古焼は途絶えてしまいます。
萬古不易 萬古不易 沼波弄山


萬古焼の再興

弄山の没後から約半世紀後、同じ小向で森有節ゆうせつ
千秋せんしゅうという兄弟が萬古焼の復興を目指し開窯します。
兄の有節は木工、弟の千秋は発明の天才という工芸的才能に恵まれ、
研究熱心だった2人は次々に新しい萬古焼を生み出しました。
弄山の時代とは変わって流行し始めた煎茶や国学なども積極的に取り入れ、
木型を使って急須を成形する型萬古や金を使った
鮮やかなピンクが特徴的な腥臙脂釉しょうえんじゆう
粉彩による大和絵の絵付けなどを考案しました。
有節らが再興した萬古焼は主に「有節萬古」と呼ばれます。

四日市萬古焼の誕生

有節萬古の人気に着目し、
四日市末永村の村役だった山中忠左衛門は私財を投げ打って研究に取り掛かり、
四日市の東阿倉川の唯福寺の海蔵庵窯に手ほどきを受けるなど20年の研究の末、
1873年に量産できる陶法を確立させ、
村人に道具と陶土を与えて指導し陶工を育成しました。
これが四日市萬古焼のはじまりです。
長年の研究を経てやっと確立した生産方法でしたが、忠左衛門は惜しみなく公開し、
それによって四日市で萬古焼に参入する人が相次ぎます。
川村又助、堀友直らの優秀な起業家も出現し、
手捻りの半助、利助、豊助、木型の庄造、ロクロの佐造など優れた陶工らも育ちました。
四日市港や鉄道の整備に伴い、萬古焼は国内はもちろん、
輸出も盛んに行われ地場産業としての基盤が築かれました。
山中忠左衛門、堀友直、川村又助らが輸出に尽力した明治の四日市萬古焼は、
鳥や象などユニークなデザインののものも多く作られました。
当初、原料は垂坂山を中心とした阿倉川、羽津地区の白土を使用しておりましたが、
明治中頃には枯渇してしまいます。
その後、美濃地方の温故焼との協同により鉄分を含む赤土が開発されまし
それが現在の萬古焼を代表する製品でもある紫泥急須へ繋がっていきます。
しかし、明治末期になると、全国的な不況で萬古焼業界も低迷期を迎えます。
そこで西洋の硬質陶器の研究が始まり、
水谷寅次郎により半磁器式特殊硬質陶器を生み出しました。
この半磁器は黄味を帯びた温かみのある素地で人気となりました。
ちょうど改元の時であったため、「大正焼」と名付けられた。
また生産の機械化や硬質陶器・軽量陶器の開発も進められ、
輸出も増加して四日市は窯業地として大きく発展しました。
大正から昭和の初めにかけ、個人の作家として活動する陶芸家も現れるようになり
大正焼の水谷寅次郎(碧山)、赤絵の大塚斉家(香悦)、
人見洞永、田中徳松(東錦堂)、岸園山、笹岡春山などが活躍しました。
また、山本増次郎による硬質陶器、
笹岡伊三郎、塚脇鉄次郎による軽質陶器などの新しい製品も開発され、
その後も輸出向けノベルティー製品や花器、土鍋など
時代のニーズを捉えた様々な製品が開発されて、
国内外の人々の生活の中でも使われるようになり、
現在も萬古焼は国内屈指の生産高を誇っております。
四日市萬古焼 大正焼
「ばんこの里会館」を資料を参考にし、画像を一部転載させていただきしました。

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